変遷 前編

 僕の好きだったお姉さんが、所在不明になってから数年ののち赤羽の人妻専門デリヘル「杜若」にて、八十分一万五千円で売られていたことは僕に少なからぬ衝撃を与えた。

 僕の一家は高校を卒業するまで、関東の外れにある二階建てのボロアパートに住んでいた。一家と言っても僕と母の二人暮らしで、且つ母は昼も夜も働いていたから、殆ど僕の一人暮らしのようなものだった。母は凡そ僕を大切に育ててくれた。いわゆる母子家庭だったがとりたてて不自由な思いをすることは無かった。と言うよりはそのような思いをする余裕すら無かったのかも知れない。何故なら僕はこの家の家事の一切を担っていた。母はこの家族を支えるための土台たる金をつくる。僕は、この家族を継続させるための諸事をする。僕と母はお互いの誕生日を知っていたが、一度も祝ったりなどしなかった。僕と母の関係はいつも安定して決して揺らがなかった。それは心地良くも悪くもない。ただ自然であるというだけのことだった。

 僕が小学校四年生の頃の話だ。いつだったか忘れてしまったが、とにかく寒かった頃、ボロアパートの二階の角部屋にお姉さんが越してきた。上原麻里子という社会人だった。一人暮らしを始めようとこのアパートに越して来たらしかった。育ちが良いのか、律儀なのか、あるいは両方か、僕の家に引っ越し蕎麦を持ち挨拶しに来たのが僕とお姉さんの最初の出逢いだった。暮れなずむ空は暴力的な色彩を含んでいた。僕はその混じり合う色を眺めていた。留守番に慣れていたのだ。家のベルが鳴り、出てみると彼女がいた。顔も目も髪型も丸かった。紺色のカーディガンに膝丈の白いスカートのコントラストが鮮やかだった。僕の姿を彼女は気遣わしげに見た。お母さんはいるかな? この家を尋ねてくる人ならば必ず言うことだった。僕は普段通り答えた。母はいません。昼から夜までいないので、母に直接のご用があるなら朝にお訪ねください。僕は自分で言いながら、自分の言葉の素っ気なさに嫌気が差した。僕はお姉さんに普段通り答えることで初めてそれを自覚し、そしてそうする他知らなかった。僕は自分を恥じ、同時に失望した。俯いた僕にお姉さんは優しく笑顔を向けてくれた。良いんです。いらっしゃればご挨拶をと思っただけなので。それから土産物店によくあるような箱を僕に手渡した。私、二〇五に越してきた上原麻理子って言います。よろしくお願いしますね。お姉さんからは良い匂いがした。僕はすぐお礼を言った。母に伝えておきます。そう言うと、お姉さんもお礼を言った。それでは失礼します。留守番をしているだけの小学生に向かって深く頭を下げた。お姉さんの律儀さは僕の想像を軽く超えていた。肩につかないあたりまで伸ばされたつやつやとした髪が揺れ、つむじまで見えた。思わず僕は目を逸らした。まずい事になると僕は本能で感づいた。僕に踵を返す足は、豊かな曲線を描いていた。当たり前ではあるが、同級生とも母ともまるで違う脚だった。お姉さんの丸っこい瞳が横を向く。赤くなった日が溶けだすようにその背を照らす。日没時刻間近の強烈な夕焼けが目に刺さる。僕は自分の心がうち震えるのを感じた。ぼんやりと口を開け、その衝撃をやり過ごすのに必死だった。扉が閉まる頃には、僕はこの女性に惹かれていた。

 それから僕はなんとかしてお姉さんと仲良くしようとした。まずはお姉さんの家を出る時間と、帰ってくる時間とを把握した。家を出る時間は殆ど僕と変わらないが、帰ってくる時間は全く異なっていた。そこで僕はほぼ同タイミングで家を出ることにした。帰りはどう頑張ったところで合致しないのだからせめて行きだけでも近付こうと考えた。そのため僕は学校の門が開くかなり前に学校に着くことになるのだが、全く気にならなかった。早朝、僕は平静を装ってお姉さんに喋りかけた。おはようございます。お姉さんは優しく、その上僕は小学生だった。不審がられたりなどはしなかった。最初は挨拶を返すだけで終わったが、二週間ほど経ったところでお姉さんの方から僕へ喋りかけた。朝ご飯は何を食べたの? 今は何を習ってるの? 学校楽しい? 僕はそれらに模範的な抑揚で、気を引いて貰えそうなことを付け加えながら答えた。僕が朝ご飯を作ってるんです。今は社会で戦国時代をやってます。すごく仲が良かった奴とクラスが離れたんです。とかく僕は必死だった。この年上の女の人が、僕に興味を持ってくれるにはどうすれば良いのか。きっとお姉さんから見れば、滑稽極まりなかったに違いない。だがお姉さんは優しかった。今思えば、お姉さんも一人暮らしで淋しい思いをしていたのかも分からない。お姉さんは僕を気にかけるようになった。僕と親しくしてくれた。僕に手料理を作ってくれるようになった。勉強を教えてくれるようにもなった。何処か遊びにでも行こうか、とも言ってくれた。一年ほど経ってから、僕は母にお姉さんのことを喋った。同じ階の角部屋に住んでいるお姉さんに優しくして貰っているんだと。予想通り母は大して興味を持たなかった。あんまり向こうを困らせるんじゃないよ。そう釘を差したっきりだった。僕とお姉さんの仲は増々深まっていった。と言っても向こうは社会人で僕は小学生だった。何がどうなるわけもなかった。然し僕は幸せだった。お姉さんは僕のことを相当可愛がってくれた。それは僕が密かに望んでいたことだった。母にされなかったことを、僕は経験してみたかった。幼い気持ちだったがその分切実だった。僕はその愛情を享受するだけで事足りた。

 僕が中学二年生の時お姉さんに彼氏が出来た。多分お姉さんは二十七歳だった。僕は正直に聞いた。彼氏出来たの? お姉さんは虚をつかれたような表情を浮かべた。否定もしなければ、はぐらかすこともなかった。そう。職場の人でね、上司なんだけど。凄く尊敬出来る人なの。お姉さんの甘えたような口調が僕の背に沿って流れてゆく。僕の中で何かが形作られていくのを感じた。お姉さんは殆ど完璧な笑顔を浮かべた。キミにはこんな話、したくないなあ。僕は同じように目を弓形にさせた。おめでとう。結婚するの? からかうと、お姉さんは照れた。やめてよ、なんて言いながら喜んでいた。僕は笑った。頭の中にあの出逢った時の日がちらついた。それでも何処か爽やかな気持ちだった。僕は本当にお姉さんが好きだった。それだけだった。