白昼夢 1

 それなりに長く生きてきた。高校卒業後土木関係の仕事に就いてから二十数年が経つ。これまで様々な現場を転々としてきたが、一応仕事一筋に懸命にやってき た。年数が無駄に経っていることもあって、職場ではそれなりに信頼されていると自負している。妻と呼べるような存在がいないことだけ一つの心残りであったが、それでも私は充分恵まれた人生を送ってきた。食うものには困らない。時たま妹の子供が遊びに来てくれる。同僚や部下、上司とも良好な関係を築けている。仕事はやり甲斐があり愉しい。何も望むことはなかった。

 だがそれを目にした瞬間、私は、連綿とした日常が、バキリと真っ二つに割れていく音を聞いた気がした。

「何だこれは」

 口から滑り落ちた声は情けなく震え、裏返っていた。然しそれも仕方のないことだった。私はその現象に堪えうるだけの、強靭な精神力を持っていなかったのだ。



 そこは私の自宅だった。いつも通り、その時も私は近所のコンビニで購入した晩酌を手に携えていた。鍵を開けて私は足立区綾瀬にある1DKの慎ましやかな我が家に入った。扉を開けた時はまだ以前と変わらなかった。

 が、問題は居間に入った時だった。

 私の目の前でそれは丸まっていた。万年床の上で体躯をじっと丸め、私の視線を受容していた。顔は少女そのものだった。恐らく年は十か、十一か。幼さの中に女性的なものが幾ばかりか伺える頃合いの少女だった。額は狭いが双眸は大きい。瞳は私を嘲笑うかのように透き通った黒だった。髪は長く艷やかで、禁忌さを含み床にさざ波のように広がっていた。それは美しかった。清らかさを訴えてくる、一点の陰りもない美しさがあった。然し問題はその体だった。私の目は一度それを否定した。そんなことがあるわけない。何かたちの悪い冗談ではないかと思った。確かにそれはたちの悪い冗談ではあった。不謹慎なものとそうでないものの間に存在する笑えない冗談ではあった。ところがそれは私の前で不遜に横たわる一つの事実だった。少女の胴体を私は凝視した。少女の頭から下は、丸々とした虫のような体があったのだ。それはまるっきり芋虫だった。人間で言う手や足といった概念の無い生物だった。柔らかそうな裸の体はクリーム色をして、背は居間の白熱電球の明かりを浴びテカテカと光っていた。そこには鮮やかな黄緑色の縞模様が入っており、その縞の端には夫々黒色の点があり、よく見るとその点は微かに上下していた。呼吸をしているのだろうか。それからその斑の横には、いかにも繊細そうな足が、これでもかというほどぎっしりと生え揃っていた。私はその足の形に、例えば海老のような、甲殻類の足を思い出した。しかも足はそれぞれ微妙に動いていた。私は改めてその未知たる生物を眺めた。直径の大きなチューブのようにその体は肥えていて、ハリがあった。少女の顔は怜悧な印象を持っている。少女のこぼれんばかりの目は相も変わらず私を捉えて離さない。それがさも自然なことであるかのように、少女は平然とした表情を浮かべていた。

 私は静かに後退った。一歩、二歩と後退すると生物は私を責めるような表情を浮かべた。首筋に脂汗が浮かぶ。仕事明けの肉体の疲労など吹き飛んでいた。私は逃げようとした。すると少女が口を開いた。

「私を置いていくんですか」

 顔は幼いが、声は大人の女そのものだった。アンバランスさに私はそら恐ろしくなり、その上この脈略のない事件が現実のものであるらしいことに気が遠くなるような思いがした。ふいに少女の体に生えた無数の足が、意志を持って蠢き始めた。私の喉からすっと息が漏れる。少女は私に、その行動、所作を見せつけるように動き始めた。黒髪が重たげに揺れ、少女の体が俄に立ち上がる。立ち上がって分かったことだが、少女は思った以上に上背があった。体の下三分の一ほどでその全身を支えていて、それで丁度少女の背は私と同じくらいだった。もしこのままのしかかられでもすれば、ひとたまりもないだろう。少女に生えている虫の足がもぞもぞと動き私の元へ近づいた。

「私を捨ててしまうのですか」

 無数の足が私の眼前で微動する。そっと見た首と体の付け根は、ナチュラルなひとつの肌になっていた。私はこの期に及んで、これが同僚たちの仕組んだ悪戯であったりしないであろうかと絶望的な観測を持っていた。だが少女は着ぐるみとかそういったおもちゃではない、本当の生物だった。常識や経験というものが一切通じないであろうと私は思った。だがこの生物に背を向けるのも躊躇われた。殺されると思ったからだ。背後から襲われてしまえばひとたまりもない。このクリーチャーのような生物に殺されて死ぬことだけは御免だった。別にこの瞬間で死んだところで何の支障も無いのだが、私の心の不合理な部分が、それだけは止めろと叫んで仕方ないのである。膝の力が抜けていきそうだった。それは明らかな恐怖だった。私はそれに背を押され喋った。

「捨てません。俺は君を見捨てたりなんかしない」

 私は自分が何を言っているのか把握できなかった。捨てるとか捨てないとか、何の話だと私は思った。この生物は勝手に私の布団を占拠していたのだ。捨てる前に拾ってすらいない。それに声が裏返って情けないものになっていた。だが私の返答にこの生物は満足したようだった。――きっと嬉しそうに、少女は足をうねうねと動かした。そして見ているこちらまで明るくなるような笑みを浮かべた。

「よろしくお願いしますね」

 何をだ、と私は思った。だが、私は自分の意図せざるところで、少女に向かって手を差し出していた。すると少女がまた一歩私に近づいた。それから私の手を、腕を、さわさわと海老のような足で触れた。私の腕にははっきりと鳥肌が立っていたが、少女は嬉しそうに笑っていた。