白昼夢 2

 それから少女は私の家に住みつき始めた。私と友好の握手を交わした少女はその直後に、名前が欲しいと言った。ペットを買ったこともなければ、子どももいない私にとって、名をつけるということは、たとえ珍妙な生物に対する物であったにせよ重要な意味を持っていた。私は少女にマチルダという名をつけた。それは私の唯一愛する映画に出てくる少女の名前だった。少女は、ありがとうございますと笑った。東洋人そのものの顔は、映画のマチルダとは似ても似つかなかった。

 マチルダは正しく人と芋虫の中間だった。マチルダの主食はキャベツなどの葉物である。更に火を通したものは食べられず、序に言えばホウレン草やチンゲン菜と言った類のものは苦いと言って食べなかった。そのため私は、マチルダのために毎日レタスとキャベツとを購入する羽目になった。私が毎回仕事後にそれらを買うため、現場の仲間からは、私が熱心な食事制限をしているのだと勘違いされた。そして私はそれを否定しなかった。マチルダのことを説明することは、極めて困難で且つ慎重を期さねばならないことだったからだ。遂に妻が出来たのだと解釈する者もいたがそれも否定しなかった。つまるところ、家に尋ねてような親しい間柄の人間が、私には誰一人としていなかったのだ。

 マチルダは生物であった。人であり人でないような存在だったがひとまずはいきものであった。その為マチルダはきちんと排泄をした。だが最初は何処にすれば良いのか分からなかったようで、ある日帰ると床にボロボロとパチンコ玉状の糞が散らばっていた。流石に私は面食らい、その日は飯を食べる気になれなかった。トイレで用を足すのは体勢的に難しいようだったので、私はホームセンターで犬猫の排泄用容器を購入した。マチルダはそれを嬉しがった。人ならざるものとて所構わず排泄に及ぶのは忍ばれたのかも知れない。

 マチルダは私の家にいたが、特別何をする訳でもなかった。休日を丸々投じてマチルダを観察してみたことがある。だがマチルダは日がな丸まっているだけだった。私は、この余りに奇怪で、そして無害な状況に接して日和見ることを選んでいた。次第にマチルダは私に対して、良く言えば打ち解けた、悪く言えば荒っぽい言葉を使うようになった。まるで年の離れた友人のような、そんな空気さえ漂っていた。生理的に受け付けられないビジュアルではあったが、時が経つにつれ私は、私によって養われるこの謎めいた生物に愛着を持ち始めていた。


 いつもの如く仕事帰り、いつものように居間に寝そべっているマチルダに私はこう尋ねたことがある。「どうしてそんな体をしているんだ?」

 私の目の前で、健やかに呼吸するその生物は極めてナチュラルだった。そのことに私は、愛着を持ち始めたとは言え依然として恐怖していた。一応私だってそれなりに歳を重ねてきた。常識と分別というものを身につけているとも自負している。例えばこの歳で覚醒剤に身を投じたりしないし、仕事には責任を持って毎日臨んでいるし、姪っ子が遊びに来れば喜んで相手をするし、性欲はきちんとプロに消化して貰っている。当たり前と言えば当たり前だがそのレールを外れないことは、実のところ難しいのである。うだつのあがらない人生ではあるが私は自分に期待していない。そういう意味で言えば私は自分に自信を持っていた。そういった私の人生経験の蓄積において、このような生物の出現は恐怖に値するものだった。

 如何にも不躾な質問を受けたマチルダは、その場でぐるぐると体を回すと、私の方へ緩慢な仕草で向き直った。それからその釣り上がり気味の目を私にぶつけた。私はたじろいだ。取って食われると思った。退路はあるか頭の中で考えているうちに、不機嫌そうな顔をしてマチルダは答えた。

「あなたには手があり、足があり、胴があり、頭がある」

 マチルダはその体を伸ばした。無数にある足のうちの一対でしか自身の体重を支えていない。すると天井に届かんばかりの高さにまでなった。その姿は圧倒的だった。立派な体躯に幼い少女の顔はグラフィックのようで現実味がなかった。それからマチルダは蛇のように腹をくねらせ、ぬっと私の前にまでその顔を突き出した。豊かな直毛の黒髪が揺れた。少女の顔は美しかったが、好意を持つような美しさというよりは、出来る限り遠ざけておきたいような末恐ろしさを含んでいた。

「それらが何故あるのか説明できるの?」

 あからさまに挑戦的な言い様に、私は不毛ないらだちを覚えた。私は意地になって、この生物から矛盾を引き出してやろうとした。だが私の中で渦巻く思考と、それを包む言葉とは冷静さに欠けるものばかりだった。私は頭を掻き毟った。なんとか言葉を放り出そうとした。語気が荒くなるのを、わざとらしい深呼吸で抑えて私は言葉を重ねた。

「それは、そういう進化を遂げたからだ。猿が二足歩行を始め、石器を持ち火を使い始めたことと同じように、手と足と……そういったものが生まれたんだ」

「私も同じこと」

「同じじゃない。少なくとも俺は君みたいな生物を初めて見たし、初めて知った」

 私はそう話して、ふと思った。ふと我に返った。海辺に立つ足に波が触れたときのそれに似ている。この、知ったような口をきき諭すような目をしてくる目の前のそれは、果たして生きているのか? これは一体何だ? どうしてこんな、あり得ない物と私はごく自然に対話を重ねている? 愚かにも狼狽えた私に、マチルダは口もとを綻ばせた。

「初めてということに何故拘るの? あなたが私を見ていようが見てなかろうが、私が今、ここにいるということは変わらないのに」

 マチルダの無数の手足が私をからかうようにもぞもぞと動いた。私は強烈な焦りを感じた。

「私の仲間は無数にいる。それをあなたが知らないだけ。試しに、他の人に聞いてみたらどう?」

 他の人という単語に私は過剰に反応した。私とマチルダの間でのごく私的な会話が、社会に足を踏み入れた瞬間、私の苛立ちは小さく破裂した。

「そんな事があるわけ無いだろう! デタラメばかり言うんじゃない!」

 マチルダは私をさげすむように笑った。

「本当なのに」

 それだけ言い残すと、またマチルダは深い微睡みの中へと潜りに行ってしまった。私はその場に立って荒く呼吸を繰り返していた。背中が、頭が、心臓が、鋭利な刃物で何回も何回も刺されているような気になった。他の人にだと? こんな状況がまさか普通だというのか。震える手でリモコンを取った。ガチャガチャと忙しなくチャンネルを変える。時刻は十時を回ったあたりだった。どれもこれも昨日と同じような内容だ。日常というものがあるとすれば、そこには日常が流れていて、たった一人私だけ取り残されていた。それから私はお気に入りの漫画と音楽とを聞いた。その次に肉を焼いて食った。風呂を浴び着替えた。分かりきっている明日の工程を確認した。それでも私は取り残されていた。そしてマチルダは、芋虫の体躯を丸め、すやすやと眠っていた。それもまた日常であった。