白昼夢 3

 マチルダのことを誰かに喋る。私にとってそれはあの生物に対する敗北を意味していた。やってやるものかと頑なに思っていた。極限まで抗っていたくはあった。だけれども、私はこの自分のキャパシティを遥かに超えた出来事の連続に疲れ始めていた。その時には既にマチルダと過ごして二週間ほどが経っていた。眠っては起き眠っては起きるその度に、居間にあの生物がいないことを願っては失望することに私はもう飽き飽きしていた。そうして日に日に弱っていった私は遂に、彼女の、他の人に聞けば良い、という言葉を鵜呑みにした。つまりマチルダを人に話すことに決めたのだ。


 いつもの通り仕事が終わり、夕方七時半ほどになろうかという頃、私は部下を誘って飲みに出た。工期も残り半分だとか今日は金曜日だとかそういった些細な理由に託つけ、私は部下の一人を連れ立って、近所の立ち飲みの居酒屋を訊ねた。一人しか誘わなかったために部下は相当訝しんでいたが、私は意に介さなかった。そのようなことを気にする余裕など無かった。

 その部下は梶ヶ谷といって、今まで働いてきた仲間の中でも指折りで、信頼が置けると思われる人物だった。梶ヶ谷は私より五つほど下だったが、奥さんも、今年中学生になる子供もいる。一年ほど前から地元を離れて東京まで出稼ぎに来ているらしく、そのためもあってか現場の仲間の中では特に真面目だった。腹の底は知らないが、少なくとも私の話を笑って流したりなどはしない。言い触らしたりもしない。そう踏んで私は梶ヶ谷を呼んだのだ。そうして作った酒の席で、私と梶ヶ谷はビールを少しずつあおった。お互いがお互いを探っていた。私はなかなか言い出せなかったが、梶ヶ谷は急かすこと無く、私が自分から言い出すのを待ってくれた。つまみを時折口にし、仕事の事を取り留めもなく話していると、梶ヶ谷には申し訳ない一方、この男を選んで良かったと思ったものだった。

 飲み始めてから一時間ほど経ち、二杯目を注文した頃に、私は漸く切り出した。

「最近、家に虫みたいなのがいるんだ」

 私はテーブルに置かれたばかりの、ビールで満たされたジョッキを指でなぞった。メーカーのロゴがプリントされた凸部分をいたずらに爪でひっかきながら、私は自分の中の不満をこねた。あまりにぼかしてはいけない。だが直截的に言うのも躊躇われる。私は極めて歯切れ悪く、気を抜けば意味のない引き延ばしの言葉を口走りそうになりつつも、何とかひりだしていった。

「それが、普通の虫じゃないんだ」

 流石に人面だとは言えなかった。だがもし知っているのなら、少しばかり誤魔化したところで分かってもらえるだろう。そんなことを客観的に考えていたくなかったのだ。夢のような出来事、ということで済ませたかった。

 表情をうかがってみても、梶ヶ谷の表情は変わらなかった。それは驚いているようにも、考えているようにも、内心気味悪がっているようにも見えた。私は唾を飲みこんだ。最早、全くもって知らないわけではなさそうだということが、薄々感じられてしまった。

 梶ヶ谷は手に持っていた焼き鳥の串を皿に置くと、私の方へ身を乗り出した。私は身を固くして梶が谷の返答を待った。きっと、中学高校から染め続けているのであろう茶髪が、水分をすっかり無くし痛みきっているのがやけに目についた。

「俺、知ってますよ」

「知ってるのか!」

「はい、アレですよね。人と虫の中間みたいな」

 梶ヶ谷は人差し指を山なりに動かした。きっと虫の腹を表現しているのだろう。あまりにあっさりとしたその肯定に、膝の力が抜けていきそうになる。それと同じく、冷えたものが背を下るのを感じた。マチルダの、本当なのに、という言葉が瞬間的によぎった。梶ヶ谷はいまだに平然とした表情を浮かべたままだ。普通だと思っていた世界がいとも簡単に崩れていくのを、私は間近で見ている他なかった。

「そうだ。どうして知ってるんだ?」

「どうしてってそれは」

「教えてくれよ!」

 梶ヶ谷は勿体つけるように笑った。いかにも余裕有りげな態度であるのに対して、私は焦りに焦っていた。梶ヶ谷は座りなおして、まだ残っていたビールに手をつけ、

「いや、俺の家にもいるからですよ」と言った。

 私の口があんぐりと開いた。まさか、梶ヶ谷の家にもいるとは思わなかった。私は殆ど未知のものに対する目つきで梶ヶ谷を見ていた。

「本当なのか?」

「本当ですよ。井上さんの家にもいるんですね」

 アレ、と言われた存在を私は考えた。少女の頭に幼虫の胴体をした姿を脳裏に浮かべる。私はもう殆ど考える力を失っていた。圧倒的な現実の前で私はまるっきり無力であった。

「梶ヶ谷の家にいるのか」

 あの不遜な生き物が、よもや知り合いの家にいるとは思わなかった。二週間前までは私はただの建設作業員だった。だのに、今はどうだろうか。だが私は考えを改めた。もしかするとあの姿をした生物が世の中には溢れているのだろうか、と。マチルダが言ったように、私が知らないだけで、実は皆あの生物を飼っているんじゃないか? わざわざ皆言いださないだけで、本当にそうなんじゃないか。どうして他人があの虫を飼っているのだと確かめられようか。私はすっかり気を落としていたし、はっきり言って死のうかと思ってしまった。この世間というものが恐ろしく思えた。何が嘘で何が本当なのか分からない。梶ヶ谷は落ち込んでいる私を見ると、何故か心底楽しそうな表情を浮かべた。それからこう言った。

「俺の家、来てみてくださいよ」

 私はその誘いに頷いた。


 実を言えば梶ヶ谷の家は私の住んでいるところからかなり遠かった。私の家は北の郊外にあり、梶ヶ谷の家は南の県境付近にあった。ちょうど飲んでいた居酒屋から等距離で反対方向にあった。だが気に止めるまでもなく、私は梶ヶ谷の家へと向かった。道中何かを喋ってはいたものの、内容は殆ど耳に入っていかなかった。そうして言葉をなぞるだけの会話をしながら、私は殆ど糸に縋り付くような思いで梶が谷についていった。自ら地獄の釜に足を突っ込むような真似をしておいて、まだ何かに頼っていたかったのだ。だが頼るものなどあるわけがない。私は暗幕を落としたような夜道をひた歩いていた。

 そして梶ヶ谷の家につき、それを目にした時、私は思わず言葉を失った。文字通り開いた口が閉じなかった。まず梶が谷の居間にあの生物はいなかった。見渡せど何処にもいなかったのだ。私の家と同様手狭な部屋であっただけに、一体この部屋のどこにいるのか、という疑念にかられた。もしや梶が谷は私をからかったのではないか、とそこまで思っていた。然し、梶が谷は何食わぬ顔で、突っ立つ私を無視し押し入れを開けたのだった。汗のような、こもった生き物の匂いが鼻を掠めたと同時に、私の視界に飛び込んできたのは一人の少女がいた。少女はマチルダよりも大分幼いようで、背丈は恐らく私の半分もなかった。マチルダとは違って金髪で、その目は、これまた恐らく青いと思われた。と言うのも少女はアイマスクをされていた。私は名称を知らないが、口のあたりには球状のものが当てられていた。白い頬に食い込む黒い轡が痛々しくて堪らない。口元の球状のものからはたらたらと唾液が漏れ、少女の下に敷いてある布団をぐっしょりと濡らしていた。少女は絶えず、ふうふうと暑そうに吐息をあげていた。当たり前だ。そんな拘束をされている上に、少女の全身はきつく縛られていたのだ。褐色の縄は少女の体から自由を完全に奪い取っていた。全容は分からないが、少女はその身を全く動かせないのだろう。梶ヶ谷は呆然とする私を尻目に、その少女を、まるで貨物を取り扱うようにして、雑に少女の体を掴んだ。はあ、と梶ヶ谷がため息をつく。

「これ結構重いな」

 ひとりでに梶ヶ谷は呟くと、その少女を畳の上へと下した。無造作に放られたため、少女の体は一度回転した。それを梶ヶ谷は足で戻した。そこには尊厳とかそういったものの介在しない空間があった。少女の金の髪が首筋に張りついているのがいやに目につく。少女が呻いた。少女は涎と汗に塗れ、だがそこに生きていた。改めて見ると少女の四肢は確かに人ではなかった。だがマチルダとはまた違っていた。マチルダは芋虫だったが、その少女の背には羽根らしきものがついていた。更に言えば茶色い体毛で覆われている。足も人間のものではなく、どちらかと言えば鳥類に近かった。足の爪は人間にないほどの厚さと大きさと鋭さを持っている。きっと体を広げれば、美しい獣の姿をしているだろう。だが少女の全身はきつく戒められている。背に生えている一対の翼は、背の後ろでまとめて縛られていた。足も折り畳まれて縄で一括りにされている。それは最早梱包と表現した方が相応しく、少女は畳の上で、まるでゴム鞠のようになっていた。

「何もここまでする事は無いんじゃないか?」

 私は気づけばそう口にしていた。少女がどんな目にあったかと思うと、忍びない。少なくとも私が少女の立場であったら死に物狂いで抵抗するだろう。梶ヶ谷は私の言葉に悪びれもせず肩をすくめた。それから、仲間うちで冗談を言うのと同じトーンで、

「井上さん。こいつ、何も言わないんですよ。何されても何も言いませんよ。うーとかあーとか訳わかんねー事ばっか呟いてロクに抵抗しないんですよ」と言った。それは極めて穏やかで、極めて凶悪なものだった。梶ヶ谷は私の方を見て、笑いかけた。

「これは俺の趣味ですけど。井上さんもやってみたらどうですか?」

 梶ヶ谷は徐ろにしゃがみこみ、少女の頬に触れた。それから頭の後ろに手をやり、ゴソゴソと何かを扱うと、アイマスクのようなものを外した。外された先には、濁った青い目があった。真っ赤に充血して、眼窩は涙でべっとりと濡れている。焦点の合わないそれは恐ろしいほど昏かった。少女が弱弱しく瞬きをすれば、目を縁取る睫毛が力なく揺れた。強烈な力関係がそこにはあった。それでいて、それが言わば自然なことだということを、否が応でも認識させられた。あまりにも常軌を逸している。だが、それは私にも適応し得る。私にもやろうと思えばできてしまう。恐らく世間に発覚されることもなく、密かに遂行できる。それが何より度し難い。

 私は後退って、逃げるようにその場を立ち去った。