白昼夢 4

 その道すがら、あの蝙蝠の姿をした少女のことを、私はつとめて考えないようにしていた。目を背けたくなるような、あの嗜虐的な姿を一度でも脳裏に浮かべようものなら、私はこの往来で奇声をあげかねなかった。それが正当防衛であるにしろ私はこれ以上エネルギーを使いたくなかった。私はマチルダの生意気でひどく美しい瞳を、そして丸々と肥った胴を思い返した。どうしてこんな事を考えなければならないのだろうか。ほんの一ヶ月前まで、私は一介の土木作業員に過ぎなかった。毎日汗を垂らして同年代の平均より少ない賃金を頂戴してまた働く、そんなごくありふれた毎日を送っていたそれがなぜ、今、このような事態になっているのか。考えただけで気が滅入りそうだった。それに加えて、私は抑えがたい苛立ちも感じとっていた。歩みを進める脚が心なしか速まっている。首筋がやたらと痒い。弾みさえあれば何かが爆発しかねない。だが私は家に向かうほかなかった。

 家の前に立つと、私は何らかの異変を感じた。勿論根拠があるわけでも無かった。ただそんな気がした。いや、気がすると言うよりも、何かが起こっているに違いない、と言う方が正しかった。時間が経てば満ちた潮が引くように、何かが自明の事としてそこで起こっていた。

 鍵を開け部屋に入ると、そこにマチルダはいなかった。排泄用のトレイは綺麗なまま、食事のキャベツは床に散らばっていた。まさか何処かへ逃げていったのか。一瞬そう思ったものの、それはあまりに無理があった。私の背よりも巨大な体躯が、小さな窓に体を押し込み外に出たとは考えがたい。それならば、マチルダは何処かにいるはずである。この手狭な部屋であの巨体が入れるところなど、一つしかなかった。

 私は隣室の押し入れに手をかけ、殆ど確信を持って開けた。すると、やはりそこには、繊維質でできた大きな一つの繭があった。

 完成されきった白い楕円体は、よく見れば少しだけ動いていた。それはまるで呼吸するかのような、かすかな揺らぎだった。私は呆気にとられた。膝がへなへなと力を失い、そこに座り込んだ。いつの間にこんな事態になってしまっているのか、何故こんなことになっているのか。そして、これはやがてどうなるのか。

「マチルダ」

 私は声を振り絞った。独り言は虚しく繭の前で沈んでいった。再び私は声を出した。マチルダ。私は口の中でそのまろやかな響きを味わう。謎めいたものだけを残し、奇怪な生物は繭へ変化してしまった。お前はどうなってしまうのだろうか。羽化してしまうというのか。この部屋で? 蝶が孵化するとでもいうのか? いや、ともすると蛾かも知れない。何もマチルダは蝶とは限らない。私は繭へと手を伸ばした。触れたそれは案外柔らかさを残しながらも、外界を拒む硬質さをも持ち合わせている。何より、それは温もりを持っていた。生命が息づいている。蛹を切ってしまうと、中から粘液が出てくるらしい。蝶や蛾は芋虫から変態する際に、一度その繭の中で体を完全に溶かしきるのだと、そう聞いたことがある。この繭を切ってしまえば、かつてマチルダであったものが出てくるのだろう。そうであるにしろないにしろ、無論私はそんな真似をしない。私はこの生物がどう遂げるのか、ということが知りたいのだ。それを見届けた時が私の非日常の終わりであり、またマチルダとの終わりなのである。そう悟った。それから私は、繭の横に身を横たえた。私はこの繭を、生物を完全に所有したがった。私とマチルダとの関係は閉ざされたものなのである。そして特別親密なものである。マチルダの食い散らかしたものも放っておき、自身が風呂に入るのも忘れて、マチルダの健やかな変貌を肌で感じ私は眠りについた。



 暗闇の中に私はいた。上下左右もわからない空間でかすかな熱を感じながら、泥に埋もれているような気怠さを抱えていた。そうしている間に暗闇が晴れ、引きずられるようにしてそこから抜け出すと、辺りはどこまでも白かった。濁ったように白い視界は、瞬きをするごとにきれいに整理されていった。私は室内にいるようだった。壁も天井も白い。ごく静かではあるが騒然としているような雰囲気もある、妙な部屋だった。ここは何処だろうとぼんやりと思ったが、思考はうまく纏まらない。私はまだ微睡みにいた。いた、というよりいさせられていた。私の体は腕から胴、脚や顔に至るまで全てが重々しかった。それに鈍痛のようなものも感じる。呼吸も口に綿を詰めているかのように苦しい。明らかに尋常ではなかった。私の意識は輪郭をもたず、いどころを探っていた。また幾度か瞬きを繰り返すと徐々に周りの様子が目に入ってくる。ここが何処か確認しようとすると、ぬっと誰かが顔を出した。現在請け負っている現場での私の上司にあたる、板倉だった。

「井上!」

 ああ、と自分の手を握って板倉が嘆息した。

「気が付いたか! 良かった!」

 板倉はうっすら涙を浮かべている様子すらあった。だが当の私にとっては、感極まったように声を震わせる姿を見ても、何故そんな芝居がかったことをしているのかという印象しか持ちえなかった。私は言葉を発しようとしたが、上手く喋ることができなかった。喉の辺りで何かにひっかかって出せないような感覚がある。こんなことは初めての経験だった。

「良い、そのままでいろ。喋ろうとなんてするな。本当に良かった……、少し待っていろ」

 板倉はそう私に言うと、さっさと何処かへ行ってしまった。聞きたいことが山のようにあるというのに、こういう時の板倉は死ぬほど役に立たない。

 板倉のいなくなった部屋で、私はあたりに目を凝らした。極力もののない部屋だった。私の横たわっているベッドは壁にぴったりとくっついている。私の右手にはステンレス製の棚がある以外に、取り立てて物がない、殺風景な部屋だった。そして私が寝ているのは普通のベッドでなく、手すりがついたものだった。ここは病室なのだと、私は漸く気づいた。更に私の視界には先程から顔に巻かれているだろう布のようなものが少しだけ見える。これは恐らく包帯だ。全身が気怠い。一体どんな事故をやらかせばこんなことになるのか。恐らく板倉がいたということは、勤務中だろう。ならば労災は降りる。それでも入院費は払えるだろうか。そんなことを考えていた。

 そうして板倉の帰りを待っている間に、私は、その前の記憶を思い出し始めていた。気だるさに誤魔化され、大事なことを見過ごしていた。そもそも私は今まで何をしていたのか。事故なんてものではなくて、私は昨晩、自室に寝ていたはずではないか。夜更けに畳の上で私は寝ていたはずだ。そして私の横には、あの繭があったはずだろう。それが何故いま、病室のベッドに横たわっている? マチルダはどうなった?

 事態が全く飲み込めない。それでも一先ず、私はここから帰ることにした。とにかくこの非現実から私は帰りたかった。体は動かせるだろうか。力を振り絞ってみると鋭い痛みが走った。手を動かして、ベッド脇の手すりを掴んで上半身を起こすと、そこにはあるはずのものがなかった。私の体には無機質な白い布団がかぶせられている。その下半身には、あるはずのふくらみと、感触と、存在とがなかった。私は急いで布団を払いのけた。その衝撃は何と言えばよいか分からない。私の両足は膝からきれいに無くなっていた。それを見て、私はありったけの叫び声をあげた。雄叫びをあげた。だが声にならなかった。ただひゅうひゅうと掠れたような息だけが漏れる。身をよじると青い透明の何かが落ちた。人工呼吸器だと分かるのにはそう時間はかからなかった。気が動転し、私はベッドから降りようとした。足がない私の体は、呆気なくどたりと床に叩きつけられた。全身をありえないほどの痛みが襲う。太腿が濡れていく感触がする。アンモニア臭が鼻をかすめる。まさか失禁したというのか。視界は再びもやがかかったようにうすぼんやりとし始めた。頭がくらくらとする。それでも私は手の力で病室の床の上を這っていった。手にも痛みはあるが、構っていられなかった。なんとか部屋の扉の前まで来ると、私はそれを強く叩いた。誰かこの状況を私に説明してくれ。何がどうなって私はここにいるのか。私の足はどうなってしまったのか。そして私が嘗て見たものの正体は何なのか。私は声の出ない喉を酷使し、腕を振るって扉を叩きつけた。

 すると扉が少しずつ開いた。ぜえぜえと床に這いつくばる私の目の前にいたのは、少女だった。私はその少女を見上げた。ああなんという事か。

 私は彼女の名を呼んだ。声にならなかったが、私は確かに少女の名を呼んだ。艶のある黒髪に美しい瞳、生意気そうな唇にビロウドの肌。それはマチルダだった。マチルダは薄桃色をしたのワンピースを着て、私を静かに見おろしていた。その体は虫のそれではない。スラリと伸びた滑らかな足に腕。人間の少女そのものだった。それは比類のない美しさがあった。マチルダ、と私は再び言った。私は彼女の足へ手を伸ばした。お前ならば何かを知っているだろう。そんな思いだった。しかしマチルダには届かず、私の手はむなしく空をかくだけだった。額に汗が浮び、床へと落ちていく。

「痛いでしょう」

 美しい声はそのままだった。遂に私は痛みに耐えきれず、その場でうずくまった。全身が痛かったが、その中でも切断された足の断面は腐り溶けているんじゃないかと思うほどの激痛が走っていた。

「可哀想に」

 マチルダは身をかがめ、わたしの姿を見つめた。その目には同情が宿っていた。そんな目は見たことがなく、私は密かに感動した。しかし、私の身体の痛みは刻一刻と酷くなっていくばかりだった。とにかくこの痛みをなんとかしてくれ、そう私は思った。額には汗が滲む。マチルダと私の距離は、最早掌ほどの距離しか離れていなかった。全身の痛みは限界を超えつつあった。

 そしてまた、私は知りたくもないような事実を聞かされるのだった。

「貴方の脚、溶けてきてるわ」

 マチルダはそう言って、私の脚の方を見た。私はふと自分の足を見た。なんと、私の脚は腐りきって本当に溶けていた。腐乱した肉が床に落ちている。なんという事か。私のかつて脚だったものはぐちゃぐちゃになっていた。ただの肉塊と成り果てていた。私はマチルダへしがみついた。そして叫び声をあげた。この世の誰が自分の足が腐り落ちていくのを見ると思うのか。マチルダは何も言わず、私と共に、私の脚だったもののの成れの果てを見守っていた。強烈な痛みとともに、腐りきった私の脚は次第に、相互に接着し始めた。癒着しているとでも言えば良いものか、ともかく一つになり始めていた。そこからまた、私の脚は段々と膨らみを増した。横へでなく、縦へと変形しながら伸びていく。腐りながら溶け合いながら、私の脚は徐々に違った存在へと変容していった。得体の知れない、奇妙な鈍色をした液体が足から床に広がっていく。私はマチルダにしがみつく腕の力を強めた。足だけでなく体全体が軋んでいくようだった。汗がぼたぼたと床へ流れ落ちる。こんな馬鹿なことがあってたまるか、……そう思ったところで、遂に私は痛みに負け気を失ってしまった。最後マチルダに抱きしめられたような気もしたが、こうなってはどうしようもない事だった。