午后の王国

 時が目の前を川のように流れてゆくのを見た。それは薄青色に引き伸ばされ、窓から差し込める橙の日がその上を揺曳していた。重なり合った色彩は一つになることはなく、ただ果もなく帯となって僕の視界を満たしていた。

 僕は何度もまばたきを重ね、それからここが何処なのかをぼんやりと考えた。そこは雑然としていた。右手の床には埃と傷と包装紙のゴミが散らばっていて、右上の方にはやや汚らしいシンクがあった。僕は服を着ていたが、それは寝崩れていた。服の乱れもそのままに、光の射す方へと振り返れば、そこには横たわる男がいた。何とも清潔感に欠け、だらしのない体をしていたが、そいつは殆ど何も着ていなかった。足にブリーフをひっかけた状態のまま、うつ伏せになって健やかに眠っていた。腰のあたりの弛んだ肉の更に下の方を見ていると、何やら異変を感じた。鼻につくような匂いがそこにあり、そして男の股の付近には避妊具が一つ捨て置かれてあった。僕は男をじっと見て、それからこの男が僕の近しい人物であることに気付いた。ただ恋人ではなかった。僕はその男を加不足なく愛していたが、当の本人は僕のことを嫌いであるらしかったからだ。それが、何がどうなってこうなったのか僕には分からない。悪いことをしたかも分からない。僕は男のパーマのかかった髪を眺めた。この男を初めて好きになったのは、恐らく大学を卒業する年のことだった。その時は、僕もこいつも、しがない三流大に通う文系大学生だった。当時の僕はそういう場所なんて行ってなかったし、こいつだって髪にパーマなんてかけちゃいなかった。

 人を好きになるなんて、殆ど夢を見ることと等しかった。キックバックを求めるなんて正気の沙汰じゃないが、求めずにいて平然と出来るほど世慣れしているわけでもなかった。そもそも好きだなんだと考えること自体がわずらわしかったし、そこから逃げることで必死だった。友達の話をのらりくらりと躱す事にすら傷つくような繊細さは早くに捨てるべきだった。だが僕は捨てられなかった。小心者は震えるだけが能なのだ。

 そういうわけで、何年かぶりに町で会った時は逃げようかと思った。逃げるほど疚しいこともしていないが、兎に角そうしようと思った。何故ならあいつは僕の中の非常に柔らかい部分にいた。話したこともそれほど無いくせに、数年間を経ても、僕にはあいつが直ぐに分かるくらいだった。堪らないと思った。断罪されることを僕は恐れた。あいつも僕の兄と同じように、異物を見るような目で僕を捉えるのだろうか。苦々しいものとして僕を見なし、掘り返さないようにと記憶の奥にしまってしまうのだろうか。

 そんな事を思っていたのも一年も前の話だ。僕は立ち上がり、台所からコップを拝借した。蛇口をひねって水を入れて、僕はそれを飲んだ。カルキ臭い水が僕の喉を潤していくごとに、段々と感覚器官が冴えていく。僕は僕の目の前で、裸で横たわるその男を眺めた。何処かしこもそこはかとなく丸く、そして小汚い。腕につけていた時計は十時半を指していた。深夜に眠りについたのだろう。起こすのはまだ先でも良かった。警戒もせずに裸のまま眠る、それはまるで王の子供のように、不遜で無垢な姿であった。穢を知らないといえば矛盾の生じ得る事態ではあったが、僕はそう思って、薄く笑った。

 重なり合う色彩を僕は掌で撫ぜた。指と指の隙間から差し込める日は眩しく、僕はそれから目を逸らした。床へと降り注ぐ日の中には細かな毛や埃が、深海の微生物のように揺蕩っていた。その中で、でっぷりとした体の男が、まるで太古の沈没船のように眠っている。僕の胸の中に漣のように何某かの感情が訪れた。目を閉じるまでの抒情性も無い。それは決して、悪くはない感覚だった。僕は獲物を狙う豹のように男の元へ、足音を立てないように注意を払って歩みよった。僕は男の前に座り込んだ。顔はニキビを潰しすぎて凹凸が激しい。鼻は扁平として見るからに愚鈍そうで、目も細く小さい。唇は捲れたように厚い。腹の肉はフローリングに大きく垂れて、胸のあたりには毛がびっしりと生えている。それは飾り気のない、文字通り裸の姿があった。僕は瞬きを重ねる。背に、僕らを包み込むように日があるのを感じた。そうして手を伸ばし、男の鼻を摘んだ。いきなり呼吸を遮られた男は、寸毫動きを止め、間抜けに鼻を鳴らした。それは出来の悪い人形のようだった。男は僕から身をよじり、眠たげに低く唸った。その頬に僕は手をあてる。温い。男が呼吸するたびに掌の下のぼろぼろの肌が小さく上下した。それは穏やかで平和な午后に過ぎない。僕は思った。お前が起きたら、話したいことが沢山あるんだ。