リビドー

 ハードに噛み砕いてほしい、と志保は言った。ハードってどんな風にと言えば志保はうつむく。つぶやいた言葉の気恥ずかしさに、自分でも収集がつかないようだった。裸の肌で触れ合った境目は限りなく無いに等しく、夏はうだるように俺と志保を包み込んで、階下からは中華料理店のダクトが唸りあげている。ねえどうしたいなんてそんなこと知るものか、俺は自分の呼吸と血流に目を耀かせるのに精一杯なんだ、俺は志保の手を握りしめてそれに噛みつかないように食い荒らさないように切り付けてやらないように目を非常階段の禿げた塗装に注ぎ入れるのに精一杯だ。それ以外何も出来やしないっていうのに志保は俺の手を握りしめて何かを手渡す。掌の中は、ほんの小さなポリ袋と、その中には砂のようなものが入っている。冗談じゃねえよ、誰から受け取ったんだよと思って俺はそれを打ち捨て立ち上がる。何でこんなことになっちまったのか分かりゃしねえ、もう俺はお手上げなんだよって思っていたらふらりと何かが覆いかぶさってきて、それはさながらリヴァイアサンのようで、と思っていたけれども志保だった。志保の目がいやに、遥か昔の幼いころ見た星空のように綺麗だったもんだからこれは困ったなんて思っていたら頭部を強く鉄の階段に打ち付ける。頭蓋の中で脳みそが跳ねた。志保への怒りをぶつけるようないとまもなく、衝撃のまま俺はうめき声をあげると、それよりも悲痛そうな声で志保が俺に言う。噛んで。リキヤなら出来るでしょ、今あたしを噛んで。そう言って志保の唇が俺の鼻を掠める。酸っぱくてねばついた匂いが志保の薄い口唇の間からさしこめて俺は眉根をひそめる。どけ、志保どけよ。ただでさえ俺はこの重い頭を抱えてるんだから、とピロー・トークよろしく優しくささやきかけたつもりが、志保はこれみよがしに両手で耳をふさぐ。もしかしなくとも声を荒げてしまったのかもしれない。自分から発せられる声の大きささえ操作できない。こうなったのはいつの話か、何も思い出せない。でも俺は覚えている。俺はリキヤなんて名前じゃなくって村江啓一っていう地味な名前を持ってるってこと。志保は知り合いの知り合い程度の間柄だったのにいつの間にか付き合い始めてたってこと。それで俺は今日クラブに入り浸ってたってこと。馴染みの奴らと駄弁っててそれから便所に行ったら中学から音信の途絶えていた友人に出くわしたってこと。そいつの目が死んでて鼻の下と首元にデカいピアスをしてたってこと。もうこの後の事は覚えちゃいねえ。覚えていたところで意味はないってこともよくわかる。何はともあれこの場を離れないといけないのに、志保は噛んでほしいと繰り返す。噛んでよ、お願い、なんて言って俺の首元をナメクジのように嘗め回す。俺はそれにされるがままになる。体がとにかく怠い。まだ脳みそも衝撃の勢いで回転している。目の前には赤と青と黄色の渦巻と白色をした幾何学模様が浮かぶ。そのフィルターの奥には東京の空。今が何時かなんて全く分からないがそれにしても薄青の優しい色が広がっている。空の色は昨日も今日も百年前も百年後も変わらないってのに俺らったらどうしちゃったんだろうね、なんて思ってたら志保がリーバイスのボタンフライを外しにかかる。おいおいそれはやめてくれよなんて思っても、足を締めようににも間に志保がいるものだから締められないし俺の背後は階段、つまり後ろへ逃げようものなら真っ逆さまである。下生えに舌が押し当てられたかと思えば、性器を手で支えて内腿を音をたてて舐め出す。バター犬かよ。バターも無いのに。くだらない事を思って口から腑抜けたような笑いが漏れる。笑いの余韻はどうも冷えてしまって、俺はひっかかったように完全に意味を失った笑いを続ける。涙を流す権利は無いとは知っていながら股間を見ると、ばっちりと志保と目が合う。志保は俺のたち上がった性器を握りしめている。それで子供のような邪気のない笑顔を見せた。キャッチボールをしている最中のような、母親に自分の手柄を自慢するような。そんな笑顔見たことねえよ俺。とか思ってたら粘液を吸い込む音がはしたなく響きだす。ああ。俺もお前もどうにでもなれば良いんだ。