月の光

 日が沈もうとしていた。少し開いている窓から教室に向かって、夏の重たい風が吹いていた。今は放課後補習の時間だった。私は頬杖をついて、教師のうつす英文を自分のノートへ転写していたが、その内容は全く頭に入っていなかった。高校三年生となると、そろそろ皆が受験のために緊張しだすものだと私は聞いていた。現にそれはそうだった。今まで仲の良かった友人とも、習熟度別のクラスで別れてしまうと、どうしても疎遠になる。私は退屈していた。敷かれたレール通り歩いていっているのだという感が否めなかったのだ。でも私はそういう自分の感情を疎ましくも思っていた。だから結局、私は授業後の特別講習に、真面目な顔をして参加しているのだ。英文のピリオドを打って、シャープペンを止める。時計を見れば、六時半過ぎというところだった。受講している生徒の中には、眠ってしまっている人もいた。老齢の教師がひどく丁寧に下線をひいているのを見て、私は何となく呼吸をとめた。そこには甘やかな時間が流れていた。

 講習が終わって、私は一人で帰った。いつも一緒に受けていた友人が、予定があるといって来なかったからだ。他の子と一緒に帰っても良かったが、煩わしかったので、私は一人でさっさと荷物を纏めた。私の高校では下駄箱が地下にあるので、地下まで降りて、靴を変えた。すれ違った同級生たちと挨拶を交わし、私は、地下から地上へ至るスロープを上った。

 だが、微かな音が聞こえて、その途中で足をとめた。それはピアノの音だった。流れゆく旋律はよく知られたものだった。そしてそれは異常なほど美しいメロディーだった。更に、まるで曲と別れるのを惜しむように、通常のテンポより数段階遅く弾かれている。一つ一つの音が耳に入りこみ、私を掴んで離さなかった。或る種聞き手を突き放すような静けさの中に、切なさという芯が通っていた。その音を聞いていると、自分の指が震えるのを感じた。

 私は、スロープの右手にある、一面ガラス戸で仕切られた音楽室を眺めた。ピアノのところには、なんと私のクラスメートが座っていた。一人、誰もいないところで、彼女はまるで誰かを慰めるかのような音を紡いでいた。その顔は、私が普段教室で目にしているようなごく明るいものとは隔たった場所にあった。私は気付けばそれに見入っていた。彼女が私に気付いていないことを良いことに、私はその指から流れゆく音にそば耳をたて、その真剣な表情に見とれていた。

 彼女と喋ったことはない。だが名なら知っていた。同じクラスであるというのも勿論あるが、それ以上に、それがなかなか珍しいものだったからだ。彼女は、中原杜若子、という。杜若に子、と書いてとわこ、である。恵などというありふれた私の名とはわけが違っている。人づてに、彼女の家はすごく裕福らしいと聞いたことがある。でも私は彼女がピアノを弾けるなんて思ってもみなかった。たとえば合唱コンクールで伴奏者をやるなど、彼女のそういう姿を見たことは一度もない。習い事でピアノをやっていた子なら沢山いるが、私のこの眼前で行われている演奏は、そういったものとレベルが違った気がした。

 だが、この美しい音色は途中でぶつりと切れた。私は手綱を失った動物のようにうろたえた。彼女がふっとこちらを振り向いた。時計の針が重なるようにして目が合う。彼女の驚いたように開かれた目が私を苛んだ。慌ててその場を立ち去ろうとしたが、彼女から目を離すことができない。どぎまぎしている私を見て、彼女の怜悧な面持ちがふと和らいだ。彼女は鍵盤から手を外し、私を手招いた。それから大袈裟なほど大きく口を動かした。母音は、おといとえ。おいで、なのだろう。今度は、彼女は声に出して言った。防音ガラスに隔てられくぐもっていたが、私には聞こえた。私は鞄を持ち直して、きまり悪さに笑みを浮かべた。スロープを降り彼女の方へ近づくと、彼女もまたこちらへ寄って、ガラス戸を開けた。私は妙に緊張して、彼女の顔をまともに見られなかった。

「いつから見てたの? 印南さんがいるなんて思わなかった」

 彼女は屈託なく笑って、私を招き入れた。私は、ごめんねと言った。そう言わなければ、到底入る気にはなれなかった。

「別に良いよ。こんな受験期に弾いてた私も私だから」

 彼女は再び椅子に座った。制服のスカートを払い、背を正してピアノに向き合う姿勢は綺麗だった。彼女は指を鍵盤にそっと置いた。私は鞄を持ったまま、何処か居心地の悪さを感じていた。

「中原さんって、ピアノうまいんだね」

「うまくないよ。久しぶりだったし」

「でも本当凄いなって思ったよ。本当、凄いなって」

 私は私の言語能力に失望した。こういった時に言うべき言葉を一つとして持っていない。 彼女は私の言葉には何も返答せず――あるいはそれが答えだったのかも知れないけど――、鍵盤を一つ弾いた。長くゆるく伸びる高音がどこまでもこの沈黙に優しい。彼女は私の方へ振り向いた。

「ピアノを弾くのはこれで最後なの」

 遂に私は何と言えばよいか分からなくなり、口を閉ざした。どうしてと聞いてみたかったが、尻込みした。彼女はやおら立ち上がると、肩まで伸びている髪を雑に束ねた。

「この後一人で帰るの?」

「ああ、うん」

「なら一緒に帰ろうよ」

 私は、彼女が――中原杜若子が、髪をくくり終わるのを見ていた。後頭部で結われた、つやつやとした髪が揺れはっとした。それを知ってか知らずか、私よりやや低い彼女が私を見上げてきた。丸くて大きな瞳が私を捉える。ね? と彼女は言った。口が少しだけ動く。チャンスだ、と私は思った。なんて自然な流れなんだろう。このまま一緒に帰ってしまえば、きっと仲良くなれる。良いよ、と私の口はほぼ形作られていた。

 でも、声帯を使う直前、私の心は立ち止まった。あの美しい旋律を思い出したのだ。それから彼女の真剣な眼差し。あれに私は惹かれたのだ。 そうしていると気付けば、

「いや大丈夫。先に帰っとく」と言ってしまっていた。答えたさきから私の舌は少し震えていた。場を取り繕うような笑顔をつくったが、案の定、彼女は不審がったような顔をした。ここで断られるとは思っていなかったのだろう。それでも彼女は突っ込んだりしなかった。

「そう? 分かった。じゃ、またね」

「うん、――あ、ちょっと待って」

 私は突然、鞄からスマートフォンを取り出した。それからカメラのアプリを起動させた。写真を撮らせて、と私は確かに言ったはずだが、それは言葉にならなかった。彼女は私の手の動きを見て、眉を顰めた。「何?」と彼女は言った。「記念に」と私は答えた。全く自分でも何の記念か分からない。彼女はしぶった。ええ、とか、意味分かんない、と呟いていた。当たり前だ。でも私が彼女にスマートフォンのカメラを向けてしまうと、折れたのか、大人しくなった。顔を手で隠そうとする彼女に、私はそのまま、ファインダーのボタンを押した。カシャリ、と軽い音が響いた。彼女は顔から手を外し、私に、撮れた? と尋ねた。私はそれに返事をする代わりに、もう一回ボタンを押した。再びシャッター音が鳴ると、彼女は虚をつかれたようになった。私は内心、快哉を挙げた。

「ねえ! 今のも撮ったの?」私は思わず笑った。ごめん、なんて心にもない謝罪を口にして、問い詰めんとする彼女から逃げた。ガラス戸に手をあてて身を乗り出し、憤然としている彼女に、私は、 「またね!」などと白々しく口にした。私はスロープを駆けあがった。彼女の安心しきった顔を載せたスマートフォンを握り、初夏の空気の中を走り抜ける。小さなこどものような高揚を、私は確かに抱きしめていた。