流れゆく者

 夏芙蓉の匂いがした。意識を失って今にもぶっ倒れてしまいそうなくらい暑い。それもそうだ。今日の最高気温は体温近くになるらしい。山に囲まれた盆地であるこの町は、夏は死ぬほど暑くて冬は死ぬほど寒い。そして今は七月中旬だった。

 学校帰りに必ず寄る駄菓子屋がある。口わびしさを埋めるためと言うよりは、そっけないけど面倒見の良い店番のオババの人柄を求めて、よく仲間うちと寄り道していた。寄っている理由は実のところもう一つあるのだが、それを僕の仲間内は誰一人として知らない。

 その店の脇にぽつんと放ってあるベンチに、僕は昼間から座っていた。勿論平日である。夏休みは一週間後に始まる。今頃、多分二時限目が始まっているだろう。田舎の中学に通う二年生の僕は、夏休み一週間前になって優雅にサボタージュと耽こんだわけだ。

「怠いなあ」

 僕はわざと口にしてみた。癇癪もちの担任の顔を思い出して背が縮み上がるような思いがした。久しぶりに買ったチューペットをいたずらに口に含むと、二ヶ月も放ってある虫歯に冷やっこい甘露がしみこむ。手に吸い付くプラスチックの細長い棒の中の液体は、コチニール色素でがっつりと赤に染まっている。僕の唇には赤い水滴がついている。まるでドラキュラのようだ。頭が痛くなるくらい日は照っているけど、そう感じた。


 そうやってチューペットを吸って、それからふと立ち上がった。ある人を迎えに行くのだ。意味もなく一番上のボタンをはずして、僕は駄菓子屋の中へ入った。浅黒くしみだらけ皺だらけのオババの奥に、すりガラスの扉がある。ここの駄菓子屋は家と一体化しているのだ。僕は訳知り顔でオババの後ろへと歩みを進める。それからすりガラスの扉を開けた。家の裏口から僕は叫ぶ。

「ミカ!」

 すると、バタバタと足音が聞こえてくる。僕は期待に扉を持つ手の力を強めた。彼女がやってくる。遠くから、マジで、と彼女の言葉が聞こえてくる。簾を手で押して、彼女が顔を出してきた。その顔は驚きとその他諸々の感情でごちゃまぜの体になっていた。僕が来るとは思わなかったのだろう。彼女は部屋着そのものだった。

「何で来てんの?」

 僕は少しむっとした。だがそれより、彼女の声を聴いたことの方が嬉しかった。

「会いに来たんだけど」

「気障なこと言ってんじゃないよ」

 そう言いながら彼女は、自分の顔を手で覆った。相当動揺しているのか、目はあちこちに泳いでせわしない。

「ちょっと待って、僕全然髪とか整えてないんだけど……」

「良いよ、別に」

 僕は笑いかけたが、彼女にとっては深刻な問題なようだった。

「良くない」

「良いって」

「田村は分かってない」

「分かってないけど、別に良いじゃん」

 僕は彼女を見た。久しく日の光を浴びてない肌は生白く、不健康に伸ばされた長髪は寝ぐせであちこちに跳ねていた。寝間着にもよく見れば毛玉がたくさんついている。顔を手で覆っているから分からないが、目脂だってあるだろう。僕は笑った。

「来てよ」

 嫌、とか、ちょっと無理、と彼女は後ろ向きな言葉を重ねたが、次第に何かを納得したような顔に変わった。一人でに頷き、それから何度も、うんと呟いた。僕はその様子をずっと眺めていた。すると彼女は顔を手で覆ったまま、ぱっと僕は見た。とても柔らかく、好い目をしていた。

「五分だけ待ってて」

 彼女は言った。

「うん」

 すると彼女は僕に背を向けてバタバタと向こうの方へ駆けていった。五分では終わらないだろうな、と僕は思った。一先ずベンチにもう一度座ることにした。



 僕がよく通っている駄菓子屋の正式名称は、「崎山商店」という。そして彼女――ミカの苗字は崎山だ。そして彼女の名は崎山ミカ、ではない。崎山フミカズである。彼女は崎山商店の長男坊だ。僕より彼女は一歳年上で、家に引きこもってから二年くらい経つらしい。ふみかず、の真ん中だけ抜き取って彼女は自分をミカと名乗る。僕はそれに対して特別な感情を抱く。彼女はスカートを履かない。特に化粧をしたがったりもしない。なよっとしているわけでもない。一人称だって僕だ。彼女は水のような雰囲気を持っていた。僕にとって、不思議な存在だった。

 彼女と初めて会ったのは一年前、やはりこの駄菓子屋でだった。本当に偶然目にしたのが始まりだった。僕が中学に通い始めた頃に聞いた噂がある。「崎山商店の兄ちゃんは変態である」「中学にも行かず家に引きこもっている」。この田舎で学校に行かない、ということは結構重い事実である。その上、変態と来た。誰もが会話のスパイスとして崎山家の長男について話したがった。事実は歪曲され噂となり、独り歩きする噂は最早伝承になる。誰もが本当のことを知らない。

 僕がミカを見た時に覚えたのは胸のざわつきだった。あの時彼女はあのすりガラスから顔を出してオババに話しかけていた。前にもたげた顔は肩甲骨あたりまで伸びた黒髪に隠されて見えなかった。ただ一見して、どうも変態では無さそうだというのが分かった。変態と呼ぶには、彼女は優しげな雰囲気を持ちすぎていた。彼女は無防備だった。まさか平日の昼間に客がいるとも思わなかったのだろう。その時に学校をさぼっていて良かったと、僕は今になって思う。

 彼女が僕に気付いた時の顔はとても面白かった。目は見開かれ、口は半開きになっていた。もしあの時誰かが彼女の後ろにいて彼女の背を叩いていたら、大声が出ていただろう。彼女は唖然としていた。逃げようとしていた。表情は限りなく素だった。そしてその彼女の姿は僕に、これまでにない揺らぎを与えた。体は完全に男だった。顔も特段女性らしいというわけではなかった。だが彼女は揺らいでいた。彼女をじっと見ていると僕は自分が底のない湖に浸っていくのを感じた。湖は限りなく暖かかく、その癖に光を持たなかった。

 幸い僕は空気の読めない類の人間だった。僕は尋ねた。崎山さんですか。彼女は気圧され気味に頷いた。僕は言った。友達になりませんか。彼女は面食らっていた。僕も面食らっていた。昔言われたことのある言葉をいざ口にしてみると、取り返しのつかない事態になりかねないことに気が付いた。これ以上ないほどの正攻法だった。でも僕は僕の望みを過不足なく把握していたし、期待もしていた。だが、彼女がとった選択は逃走だった。閉じられたすりガラスを眺めながら、僕は一つ日課が増えたことを知った。彼女と友達になる。それは本能だった。僕は本能で彼女に惹かれていた。

 およそ数か月かけて、彼女と喋ることができるくらいの段階になると、彼女に関して少しずつ知っていることが増えた。噂とは違う部分もあれば、同じ部分もあった。彼女に関する知識を得ていくことは、さながらゲームで実績を集めていくことのようで、純粋に愉しかった。他者に対する優越感と言うよりは、ごく個人的な営みと同義だった。ただそれにコンプリートはもちろんない。そして多く聞くことがそれだけ良いということでもなかった。初めて会った時から一年経っても、僕はまだ彼女に関して知らないことが多い。たとえば彼女がどうして学校に来ないのか、なぜ「変態」と呼ばれているのか僕は知らない。それこそ何故髪を伸ばしているのかも知らない。もっと細かいところで言えば、血液型や誕生日、あと名前の漢字なんかも知らない。でも僕は、どちらかと言えばどうでも良いような彼女の情報を知りたかった。そういう事を聞くよりは、彼女の好きなことを聞いていたかったし、お互いの日常の話をしていたかった。それを彼女は急かすことも疎むこともなく、ただ僕と話をし続けた。それは糸を紡ぎ布を織る行為と似ていた。


 チューペットはとっくに食べ終わり、スマホで時間を確認すると二十分が経った頃彼女はやってきた。ごめん、と彼女は僕に申し訳なさそうな顔をつくった。幅の広い黒いズボンに薄青のボーダーが入ったTシャツを彼女は着ていた。髪の毛もすっかり整えられ、そして珍しいことに後ろで一本に結んでいる。何とも夏らしかった。

「珍しいね」

 僕は言った。彼女は満更でもなさそうな表情を浮かべ、僕の隣に座った。

「だって今日38度だもん。結ばなきゃやってられないって」

 彼女は30円の棒アイスを二本手にしていた。バニラとチョコレート味があって、その二つを僕に差し出した。

「どっちが良い?」

「チョコレート」

 はい、と言って彼女が僕にそれを手渡した。僕はチョコレートアイスを齧る。口の中でほのかにチョコレート味のする氷に歯を立てる。チューペットを食べてしまったせいで、あまり甘さを感じられなかった。彼女はと言うと如何にも美味しそうに食べていた。

 アスファルトには陽炎が揺らめいていた。今日の二限目は体育だった。今頃汗水を流してグラウンドを走り回っていることだろう。何限から行こうか。最低でも三限から行かないといつものつれから怒られてしまう。

 ミカと会うのは決まって夕方だった。夕方と言っても殆ど夜に近い。学校帰りに駄菓子屋へ寄り、一時間ほど経ってから家に戻る。それから駄菓子屋の閉店時間を狙ってここに来て、いつもミカと話していた。だから日の元にいるミカは僕にはかなり新鮮だった。そうして見てみると、ミカの顔の細部までがはっきりと分かる。そして胸の膨らみもまた目につく。中には何を詰めているんだろうと思ったが、直ぐにどうだって良くなった。

 チョコレートバーを半分以上食べたところで、ミカが言った。

「僕さあ、学校通うことになったんだよ」

 なんてこと無い、という口ぶりで言われたその内容に僕は絶句した。まさかそんな事が起きるとは思わなかった。ミカはまたチョコレートバーを齧った。ミカは指で唇をぬぐった。

「夏休み明けからね。そしたら卒業認定くれるって校長が言うからさ」

 僕は唾を飲んだ。この人は僕が入学した時には学校にいなかった。少なくとも丸一年以上は来ていないのだ。かなり行き辛い状況であろう事は想像に難くない。

「大丈夫?」

 僕のその問いにミカは、うーん、と考え込むような素振りを見せた。それから肩をすくめて何処か遠いところを見つめた。通うと決めても不安なのだろう。

「ブレザースーツさえ乗り切っちゃえば楽かなって」

「着るの?」

 ミカはきょとんとした目をした。僕も同じような表情をしていた。僕には来ている姿が全く想像できない。ミカはそれから僕の背をガンガン叩き笑い始めた。ミカの手は大きい。更に勢いもあったためかなり痛かった。

「そりゃ、着るよ。だってフミカズだし」

 ミカは最後の一口を食べると、ベンチ横の、薄汚れたゴミ箱へと棒を放った。僕もそれを真似て棒を投げる。手持ち無沙汰になり、僕はわけもなく携帯を取り出した。その手は画面に触れるだけで、何をするというわけでもない。

「って言うか、皆知らないだろうけど、僕学校にいたし」

 ええっ、と声が出た。何処に、と聞けば、彼女は会議室と答えた。

「うちの学校保健室登校って無くてさ、その代わりに地下の薄暗いとこにある、予備会議室ってところを使うんだよね。相談室って名前ついてるらしいけど、ほぼ会議室だよ。そこに、クラスにいたくないけど学校に通う意思がある人とかは、通ってたりする。田村の学年の子も一人いたはず」

 地元の中学に通って一年と半になるが、僕はそんな場所がある事すら知らなかった。彼女は余裕有りげに笑みを浮かべた。

「ロールプレイングならバッチリってわけ」

 彼女は立ち上がった。それからわざとらしく手をひらひらと振った。暑いなと彼女は言った。僕に背を向けると、彼女は駄菓子屋の中へと入っていった。彼女のあとをついていこうとするが、僕の体は動かない。僕は自分が、最早ここにいてはいけないのだということを飲み込み始めていた。

 何も言わずに座り込み続けるオババと目が合う。オババはミカについてどう思っているのだろう。ただ僕に向ける目線は、思わず反らしたくなるような、するどさをふくんでいた。オババの後ろに立ったとき、彼女が振り返った。

「学校、行ってきな」

 皆待ってんだろ。そう言った彼女は、少しだけ口元を綻ばせる。僕は自然と後ずさった。そして言った。

「また、後で」

 彼女が僕に手を振る。それを見て僕は返さず、真っ直ぐ学校を目指した。後でまた会おう、と僕は胸のうちで強く思った。夏のカンカン照りに頭はくらくらとしていたが、歩みが乱れることはなかった。


 果たしてその二ヶ月後、崎山の長男が学校に来始めたという噂が広がった。僕は会わなかったが、目にした人たちは皆、普通だったと口を揃えて言った。わざわざミカを見に行って、つまんねえのと不貞腐れる奴までいた。崎山の長男に関する噂の一つ一つは次第にガセだと思われるようになった。

 僕はこの二ヶ月ミカのもとに一回も行かなかった。僕はどうしてもミカに会いたくなった。三年生の校舎に行くのは勇気が足りなかったし、ミカに迷惑をかけるのも避けたかった。二年が三年に会いに行くなんて、僕の中学の常識で言えばあり得なかった。だが僕が動かないでいればいるほど時はただ無為に過ぎていくばかりだった。

 九月の後半になって、僕は決心した。二年と三年の下駄箱はほぼ隣にある。その丁度間辺りに立ち、僕はミカを待ち続けた。三年がちらちらとこちらの様子を、うざったがるように見てきたが、気にしないように努めた。波の中でミカを探しあてる自信は正直なかった。こんな時に、携帯番号やメールアドレスを聞かなかった事を後悔する。だが仕方ない。僕は人の波が押し寄せるたびにミカの姿を探した。

 結局最終下校時間近くになるまでミカは現れなかった。飽きもせず待ち続けていたら、僕はとうとうミカに会った。彼女は少し離れたところに立っていた。その場に暫く立ち竦んでいたようだった。僕がミカに気付いた時には、すでにミカは僕に気付いていたらしい。ミカは本当に驚いていた。下駄箱に近づくことすらも忘れ僕を見ていた。だが僕も同じくらい驚いていた。正直彼女が立ち止まってくれなかったら、気づいていなかったかとしれなかった。

 僕は、ミカと口に出そうとした。然しそれは憚られた。どうしようと僕は思った。何が正解か分からなかった。でも僕はそれ以外に、彼女を呼ぶ方法を知らなかった。

「ミカ」

 そう呼べば、彼女の顔がみるみるうちに赤くなっていった。彼女は顔を手で覆った。

「二時間待ってた」

 僕がそう言うと、彼女は更に驚いたような顔をした。懐かしいような気分になって僕は笑った。靴履き替えたらと言うと、彼女は慌ててその通りにした。俯く顔を覆っていたあの長髪は無かった。彼女は、ごく普通の男になっていた。でも彼女は、実のところ何も変わっていなかった。

 靴を履き替えると、彼女は恥ずかしそうに僕のそばに来た。それからまた顔を手で覆った。

「待って、ちょっと……全く予想してなかったんだけど」

 所々声は裏返っていたが、それは僕がよく聞いていた彼女の声そのものだった。

「悪かったよ」

 謝ると、彼女は、別に、と言った。僕たちは歩き始めた。

「別に良いんだけどさ……、あんたも良いの」

「何が」

「その……僕と歩いてて」

 グラウンドを見れば、野球部員が大慌てで片付けをしているところだった。誰も僕と彼女に気を配ってはいなかった。それに、見られたところで何がどうなるというわけでも無かった。

「楽しいよ」

「えっ?」

「僕は楽しいけど」

 突拍子もない事を言っている自覚はあった。

「ミカが嫌なら今度から来ないようにする」

「いや! 別に! 嫌とか、そういうわけじゃないけど」

「じゃあ良いじゃん」

 彼女は呆気に取られていた。僕は彼女を見た。目の雰囲気は柔らかく、肌はきれいだった。少なくとも僕は、彼女の見た目は好きだった。

 それにしても僕は彼女のブレザースーツ姿に驚いた。思ったよりも似合っていたのだ。相当違和感があるんじゃないかと思っていたが、予想は外れた。僕よりも全然様になっていた。

「制服はどう?」

 聞くと、彼女は顔をしかめた。

「こんなん早く脱ぎたいよ。ダサいし」

「ええ」

 勿体無いと僕は言ったが、彼女は嫌なようだった。

「コスプレしてるって思えば耐えられないことも無いけど、でもさあ、田村もよくこんなん着れるよね」

「何で?」

「だって、もっとふわっとしたもの着たくない?」

 そう言ってから彼女は吹き出すように笑った。おおかた、僕が着ている姿を想像したんだろう。

「そんなこと無いけど」

「絶対こんなんよりも良いって」

「そうかな」

 彼女の目は輝いていた。その姿を可愛いと僕は思った。

「そうだよ、今度貸してあげよっか?」

「良いよ! 僕は似合わないから」

「いやー、モノは試しって言うでしょ」

「試さなくて良いから」

 僕と彼女は帰途を歩いていた。夏の蒸し暑さがようやく消えた、涼やかな風が吹く。今が一番過ごしやすい時期だった。同じように歩く他の生徒が、何人か、僕とミカを見てくるのを感じる。それは僕が普段感じることのないものだった。ミカはそんな事には気づかないように、喋っていた。若しくは、そんな事があり過ぎてもう慣れてしまっているのかもしれない。僕はミカが嬉々として喋る姿を見ながら、こういう事がしたかったのかもしれないと思った。畑の広がる左手には赤い日が沈んでいた。空はうすい藍色と朱色が薄く引き伸ばされている。僕は彼女の話に相槌を打ちながら、その色彩を眺めていた。