熱狂

 かつて饒舌に語る男がいた。淀みなく言葉を紡ぎ解釈の一つも与えずに語り続ける男がいた。男は凡庸な家庭に生まれ、凡庸な能力しか持たず、凡庸な生き方しかしてこなかった。話術が特別秀でているわけでもない。それでも男は語り続けた。男の話は長くなればなるほど要領を得なくなる。男が言葉を重ねれば重ねるほど聞き手は深い森の中へ分け入っていく。男の話を聞くことは、即ち時間を溝に捨て自らの精神を削ぎ落としていくことだった。それは男にとっても同じことだった。男は語ることを密かに恥じ、後悔していた。だが男は止めることが出来なかった。そうしているうちに友人達は皆男を見捨てていった。その後何人かが男と親しくなろうとしたが、時間の差こそあれ、結果的には全員が男の元を去った。遂に男の周りには誰も残らなかった。男は最早語るべき言葉を持ち合わせていなかった。程なく、男は口を結び、部屋の中に閉じこもり始めた。日の光も浴びずじっと丸まり、昼と夜の境もつかない浅い眠りを繰り返した。男の生気に溢れた顔はいつの間にかろうのようになり、髪は獣の鬣のように長く伸びていった。その間も誰一人として男を顧みらなかった。誰に慰められることもなく、かと言って見咎められることもなく、男は目を薄く開け、小さく呼吸を繰り返していた。

 それから長い時間が経った。男は依然として生きていた。男の髪は病に冒された枝のようになっていた。つややかな肌は名残さえ残さず、瞳は鈍色に濁っていた。男の目を糊するように、眦には目やにが溜まっていた。それでも男は息を続けていた。

 時の無為に流れていく中、ふと部屋の扉が開いた。それには遠慮のない自然さがあった。体を扉にすりつけるようにして入ってきたのは、また別の男だった。彼は部屋に入ると、躊躇うことなく男の背後へ回った。それからズボンのポケットを探ると、掌に収まるサイズのカッターナイフを取り出した。薄く銀色に光る刃だった。男は瞳を彼の方へ向けたが、体は部屋に根付いた樹木のように動かなかった。彼は男の背に手を当てた。男は半袖のカッターシャツを着ていた。年月に反して皺は殆ど無く、新品さながらの美しさを保っていた。シャツの襟から覗く項は山の峰のように骨が浮き出ている。袖から伸びる腕はしなびた草木のように水分と油分を失っていた。彼は男の肩に手をのせた。彼の目は夜の川底、男の目は朽ちた倒木だった。男のものと違う滑らかな腕の片方は弛緩し、もう片方はカッターナイフを持ち微かに緊張していた。彼は肩にのせていた手を背中へとずらした。それから、その手をナイフに添えるように横へ動かす。彼の手は男の体温を感じ取っていた。彼は目を細めた。男は動かない。彼はカッターナイフの峰に親指をあてると、その刃を男の背に当てた。肩甲骨を結んだ線の丁度真ん中あたりだった。男は未だ動かない。彼は刃を持つ手に力を込め、男の体に差し込んだ。刃はシャツを引裂き、男の肌を食い込み、肉を通り抜け、内蔵まで達した。彼の手は肌を裂く感覚を味わう。刃を男の体に親指ほどの深さまで入れると、そこから下へと進ませた。刃はシャツと肉とを縦に裂いた。鳩尾のあたりまで刃を進めると、彼ははたと手を止めた。カッターナイフを彼の体から引き抜き男の口元に手を当てた。彼の手に男の息が当たる。男は未だ生きていた。彼は手を外し、背へもう一度触れた。そこには、彼がその手で下した裂け目があった。彼は男のシャツの裂け目に、傷の中へと手を滑りこませた。血と肉とに触れる音が無い。手を入れた途端に、赤くかすかに熱を持った、水気の無い滑らかな何かが彼の手を包み込む。血管と思われた物肉と思われた物内臓と思われた物はそこになかった。男の内部は革張りだった。 内臓も血もない、革という肉に囲まれている、そこはただの空洞だった。彼はそこへ手を埋めた。すると、男の持っていた僅かな熱は段々と冷めていった。彼の手は最初から熱を持っていない。彼は男と時を共有した。そして男は目を閉じ、遂に息を引き取った。