人魚

 小指で書いた文字は波に攫われてしまった。縁を泡立たせて私の残した記号を有耶無耶にしてしまったものを眺めていると、私はふいに風の音を聞いた。目の前には海と空の境目である水平線が見えて、午後五時半の夕日は遠くの方で赤く甘く辺りを包み込んでいる。左手のはるか向こうには三浦半島が首を出して、右を見てみれば江ノ島があって、その奥に日が傾いている。私は膝を折ってそこにしゃがみながら緩やかに吹く風を感じていた。波の音を聞いていた。叙情性というもののない私の意識はまだ小指に宿っていた。そうして私がかつて何かを書いていた、濡れた砂のキャンバスを眺めていると、悲しいような気分になった。私はそこに何を残したのだろう。自分で書いたというのに全く思い出せなかった。私はほとんど何も考えずにそれを書き、そうしてぼんやりとしているうちにそれは形を無くしてしまった。それが大事なことなのか、はたまた些細なことだったのかも分からない。無くしてしまったということだけが確かな手応えとして私のうちにあり、その癖にそれは曖昧なものに過ぎなかった。そして無くなったもの、言い換えると無くしてしまったものに対して、私は小さくうろたえた。消えていってしまったということに対して私は執着した。私がいたずらに書きつけたものの内容を私は知りたがった。そうして慌ててその痕を触れようとした時に、また波が訪れてしまった。静かな音をたてながら波は私の目下に迫り、あっという間に私の足を浸していった。海水のぬるさに眉をひそめていたら、ふと声がすっ飛んできた。「何してんの!」鬼気迫ったような声とともに手が私の腕を強く掴んだ。振り返ってみるとそれは同居人の美奈だった。美奈がすっぴんで髪も全くもって整っていないことに私は密かに驚きながらも私はその手にひかれて、多少後ろによろけながら立ち上がった。美奈は私のことを呆れたような眼差しで見て、そして私の頬を軽く叩いた。私はその頬の衝撃よりも美奈の容姿の方が気になった。明らかに着古してある、よれたシャツにジーンズとサンダルという姿だったからだ。美奈は非常にプライドの高い人間で、こと服に関しては同居人である私に対してもかなり気を遣ったものを纏うからだ。量自体が私の二倍は確実にある上、かけている金額ともなれば私の三倍かそれ以上になる。弱みを人に見せることを最も苦手とする彼女がそういった格好をしているのを、私は初めて見たのだった。そうして面食らっている私を尻目に、美奈は私の目をのぞき込んだ。

「大丈夫? 怪我なんかしてないよね?」

 海岸で波を眺めているだけで、どうして怪我なんてする必要があるのだろう。私は不思議に思いながら、素直に答えた。

「うん。大丈夫」

 美奈は明らかに安堵したような表情を見せた。私の頬から手を外しても、彼女はまだ私を真っ直ぐに見つめてくる。私はその飾り気のない綺麗な目を具に眺めた。美奈の目は一重で、そしてアーモンドのような美しい曲線を描く。美奈と出会ったのはおよそ五年も前の話だが、彼女の素朴な美しさには、五年前も今も変わらずに魅了される。でもその目元にはどこか疲労の色が見えて、私は胸の奥が焼けるような焦燥を覚える。どうしてそんな事になっているのか、まるで分からないからだ。私は美奈の目元に触れようとしたが、それを彼女はやんわりとのけた。

「それなら良いんだけど」

 美奈はそう言って俯いた。言うべき言葉を探しているような彼女を見ていると、私はふとあの事を言ってみたい気になった。まるで子どものような拙く明るい気持ちでもって言ってみようと思った。

「さっき文字を書いてたんだよ」

「文字?」

 美奈は顔をあげた。優しい表情だったのに私は安心して話し続けることができた。

「そう。砂に何かを書いてたんだけど、波が来て消えちゃった」

 私は彼女の隣に立って、その腕に絡んだ。それから彼女の柔らかな掌に掌を合わせ、指を繋いだ。彼女より頭一つ高い私は、彼女が動揺したのが手に取るように分かった。それに構わず身を寄せて私は話し続けた。

「自分で書いてたのに、その内容も覚えてなくて、思い出そうとしてたけどできなかった」

 柔らかくて私よりも小さな彼女の指を握って、私は海岸を見た。砂浜に打ち上げられた波はどこまでも透き通っているのに、広がる海洋の色は群青を呈している。江の島にかかった日は赤く、あたりを薄く赤く染めている。朱色の夕霧の中には箱根の山々の稜線が見える。夕焼けは美しいのに、その上のあたりの空はもう夜の準備を始めて薄青色になっている。波の音と風の音が通奏低音のように響き、時々体を酷く冷やす。彼女が私の方へ振り返って、少しだけ私の指を握り返した。

「二人で何か書こうか」

 そう言って微笑む彼女は明らかに私に気を遣っていた。私は首を振った。

「良いの。別に」

 そう言うと、彼女が困ったような顔をするものだから、私は胸をかきたてられるような気分になった。

「でも」

「消えたものは消えたままで良いんだよ」

 自分でそう言ってしまって、冷たい言葉だと私は思った。埋め合わせてくれる彼女の優しさを拒んでまで伝えることではない。だが今の私に言えることはそれしかなかった。無くしたものに上書きをして、彼女と私で何かを残したところで、それが消えてしまったという事実は消えないのだ。彼女は私をふと見て、それから声も出さずに頷いた。その表情は、見ている私がはっとするほど切ないものだった。彼女はさっきから寂しいような顔ばかり見せる。理由を聞いてみたい気もあったが、聞いてしまったが最後、彼女を途轍もなく悲しませてしまうような予感がした。私は何も言わなかった。所々にできた穴を丁寧に綴ながら私たちは生きていく他ないのかもしれない。

「美奈」

 私は彼女の名を呼んだ。それから彼女の頬を手で触れた。唇を近くまで寄せた。彼女の睫毛が震えているのを私は眺めて、私は握っていた手を彼女の腰に回した。薄いTシャツ越しに、彼女の柔らかくなめらかな肌に触れた。人のいるところでこんな事は滅多にさせて貰えないのに、今日の彼女はやけに大人しかった。私は恐らく何か大事なことを忘れてしまったに違いない。もしくは、私だけが何か知らないことがあるのかも知れない。それでも私は何でも良かった。私が知らないとしてもきっと彼女が知っている。彼女が知っているのであれば、私にはなんの問題も無いのだ。

「佐央理」

 彼女が私の名を呼ぶ。掠れたような声で、飾らない表情で、それでくるおしいまでの目をしている。出逢った頃と同じアーモンドの双眸を見詰めながら、私は波の音を聞いていた。それから昔に聞いたフランスの詩を思い返した。私はきっとこうして彼女の目を見るたびに、今の彼女といる事のできる歓びを噛み締め、それと同時に、彼女と過ごした日々を懐かしむのだろう。そう思った。